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我が家の出来事、趣味と生活を通じて感じたことなど


by arai_family
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英雄

 世間では3連休でした。私は明日もお仕事(^^)/ 今日のNHKニュースでは、英雄が取り上げられました。交番のお巡りさん。3日後の定年退職を目前にして、海岸近くの交番にとどまって、避難を最後まで呼びかけた人。市民のためにいのちを捧げた人。思わず涙が溢れてきましたが、そんな人もいるのです。今日のお巡りさんはメディアに取り上げらたけれども、実は表には出なくても世間にはそういう人がいます。そういう人たちは私たちの誇りです。その先にあるものは結ばれた、約束された未来なのでしょう。あなたと私。過去と現在と未来。それが決して夢物語などではなくて、現実だということに感謝をしたいと思います。

 「お母さん、お父さんの死に顔は険しかったわよ。ああいう顔をなさっていては、極楽浄土へ行けるかどうか心配です」。娘が越後に住む母、恵信尼に語ったとされるひとこと。私の場合、親鸞の教えよりも、その生きざまそのものに深い興味があるから、いろいろな書物を読みあさっているけれども、なかなか親鸞像そのものには近づけません。かたや、自らを殺したその人に、死ぬ直前に「神のご加護を!」と祈ったガンジーとはどういう人なのでしょう。私の謎はいつもその辺りを彷徨って、抜け出すことがありません。
 私は数年前には死刑容認論でしたが、今では死刑廃止とは言わないけれども、どのような極悪非道の人にも気がつけるチャンスを最後の最後まで与える。そういう風に変わってきました。極悪非道の人には英雄になるチャンスなどありえないと思うのが一般的なのでしょうが、そう決めつけることにどれだけ意味があるのか、私自身はもっと考えてみたいと思います。

 娘に貸してあった「職業としての政治」(マックス・ウェーバー)からお気に入りの最後の一節。
 「結果に対する責任を本当に深く感じ、責任倫理に従って行為している成熟した人間-老若を問いません-が、或る一点で、『私はこうするより仕方がありません。私はここに立っています』と申しますなら、それは計り知れぬ感動を与えます。これは人間的に純粋なもの、魂を揺り動かすものであります。なぜなら、内部が死んでいない限り、私たちはみな、いつかは、こういう状態に立ちいたらざるを得ないからであります。」
 「政治とは、情熱と見識とによって固い板に穴をあけてゆく力強い緩慢な仕事であります」「それが出来る人は、指導者でなければなりません。いや、指導者であるだけでなく、-甚だ真面目な意味で-英雄でなければなりません。そして、指導者でも英雄でもない人たちも、いかなる希望の挫折にも耐えられるような堅い意志で直ちに武装しなければなりません。そうでなければ、今日可能なことも実行することができないでしょう。彼が世界に献げようとしているものに比べて、世界があまりに愚かで卑しい-と彼が思う-場合にも、それに挫けない自信のある人、何事に対しても『それにもかかわらず』と言える自信のある人、そういう人だけが、政治への『天職』を持っているのであります。」(清水幾太郎・清水禮子訳、河出書房新社)
 そう言えるウェーバーは、偉大な思想家なのでしょう。いつも、私のそばで励ましてくれます。
# by arai_family | 2011-09-17 21:56 | 日々是好日

赤いピマン

 今日も一言も二言も言いたい素材はあるけれども、もう少し煮詰まるまでとっておきましょう。思案中(-_-) それよりも、庭で鉢で育ててるピマン。秋になって、人工授精を行わなくてもたくさん実をつけるようになりました。人工授精? 指先でチョンチョンとつつくだけですよ。そういうのは得意(>_<)だから、暑い盛りにせっせとやったけれども、今はそういう人工授精なくしても不思議と実を付けています。
 いつの間にか花びらが枯れて小さな実の先に枯れてついたまま。実が少しずつ膨らんで、枯れた花びらが先っぽから剥がれ落ちる。成熟した実はそのまま放っておくと茶色に変色して、いずれ真っ赤になる。その真っ赤になったものは、かみさんによれば辛いはずだから、その前にとるべきだろうと思っていたけれども、とりそこなったその真っ赤なピマンは小ぶりながら甘くて美味しかった。
 ピマンがさも苦みがなく、熟したトマトのように甘ければ、本来ピマンキライな人はいないんでしょう。小ぶりで真っ赤なピマン。トマトが育たなかったのはまったくもって残念でしたが、このピマンの味は忘れられないんでしょう。美味しい(^^)/
 今日はたっぷりと追肥を施してみました。また真っ赤になったら写真を掲載しましょう。甘いピマンです(^_^)v
# by arai_family | 2011-09-13 20:21 | 暮らし

生命の感覚

 今朝は、いつものお散歩のあとで、シシャモと納豆とお味噌汁でご飯をいただきました。卵をたっぷりと含んでお焦げのついたシシャモと、大粒の納豆と、かみさんが「おいしいでしょ!」という味噌の味が、「いただきます」「ごちそうさま」という言葉が自然と出てくるありがたいご馳走です。それでも、娘が「誕生日には回らないお寿司が食べたい(^^)/」といえば、それもご馳走には違いし、滅多に食べられないから「ごちそう」なのでしょう。でも、滅多に食べられないごちそうよりも、平素のごちそうこそを大切にしたいと思うのは私だけでしょうか?
 今日は9月11日。11年前の東海集中豪雨では、高いところにある商店の駐車場にクルマを置いて、膝まで水に浸かりながら自宅の玄関を開けたものでした。その1年後に同時多発テロの生中継を見せられて、さらに今から半年前には東日本大震災の苦しみを味わったわけです。
 今日暮らしているのがあたりまえで、とりわけ「ありがたい」などと思わないのは幸せの証拠でしょう。シシャモと納豆と味噌汁の世界に生きている私は幸せなのでしょう。それにひきかえ、愛する人、特に自分の子どもを失った人びとの心情に近づこうとすると、たとえそういう努力が束の間のこととはいえ、とてつもない淋しさと苦しみを味わうことになります。
 今日、生かされていることにとりわけの感慨があるわけではありませんが、失った人には心からの同情を覚えます。どうぞ、明日のあなたが健やかであられますように。そう思った時に、無力な自分に加えて「神のご加護を」とか、あるいは「阿弥陀如来の救いを」となにがしかの他者の力を添えたいと思うのは、自然の気持ちです。どうぞ安らかに。
# by arai_family | 2011-09-11 20:35 | 日々是好日

敗戦の日に寄せて

 昨日の朝、普段は読むことがない読売新聞を実家で読みました。1面の隅っこでは語りきれない、中曽根康弘元首相の現総理に対する不満で埋め尽くされていました。菅直人首相が市民主義の申し子で、結局のところ国家の利益を考えられない、矮小化されたところへ国民を追い込んだ。ひとことで言うとそれが中曽根さんの論調です。なるほど、そういう見方もあるんだな~。間違ってはいないのでしょう。
 他方で、昨日の中日新聞を読むと(今朝は休刊です)、原子力行政が原発立地の自治体に対して、交付金を支払って、それを推進してきた。1世帯当たりの金額は1千万円を超えます。それを、「麻薬のようだ」と言っていましたし、「それは日本独特のものだ」とも言っていた。「麻薬のようだ」はホントでしょうが、「日本独特のものだ」というのはウソで、夕方見たテレビ番組では、フランスでの高レベル放射能の廃棄に、過疎化した村に交付金を支払って、それを受け容れさせようとしていることが報道されていました。

 今日ほど、私たちが真実を求めている時代はありません。京都の送り火や迎え火に陸前高田で放射能汚染された木々が使われることの是非は、極めて些末な議論だと、私は思います。木々は汚染されているという事実と、それでも被災者に寄り添おうとするかという京都市民の心のありかを天秤にかけることは、正義と不正義とを計るテーマの本筋などではありません。それを大々的に取り扱うこと自体がナンセンスで、ことの本質を見誤ります。そうしたインテリ野次馬的な相変わらない日本のメディアの姿勢に不満が募る一方です。きっぱりと言って、ばかげている!

 私は、国家主義か、それとも市民主義かという、中曽根さんが繰り広げたテーマが、今日もっとも大事な政治的なテーマだろうと思います。
 戦争は市民に犠牲を強いながら、国家の大義名分を推し進めます。太平洋戦争が、侵略戦争であったかなかったか、というのも実はことの本質には迫れていない。市民の犠牲あっても国家の大義名分が守られるべきかどうか。それこそが本質です。福島の原発が、交付金という麻薬漬けにしながら、市民感覚をむしばみ、国家への帰依を強いた。そういう風に捉えるべきでしょう。現代における戦争です。

 菅直人首相の評判は落ちる一方ですが、彼が掲げた市民主義がいったいなんだったのか、中曽根さんが掲げる国家主義とはいったいなんなのか。そうしたことを問われているのです。
 私は菅さんを一方的に賞賛はできませんが、かといって、戦中の、あるいは今日の国家主義をまともに受け容れることは到底できません。「保守と革新」という言葉はもはや死後なのかもしれませんが、「人間の尊厳」ということを政治の原点に据えて、しっかりと取り組ませるのが私たち市民の仕事だろうと思うのです。

 国家主義を前面に押し出して、他国を蹂躙しようとする国がありますが(事故を起こした新幹線を埋めてしまいました)、私たちはもう一度、「いのちの尊厳」というところを出発点にしながら、日本という国を考え直す。そうしたところに立つべきだろう。それこそが、ご先祖に対する供養であるような気がしてなりませんし、それこそを未来を考える基礎にしなければいけません。一人のいのちを大切にする。それこそが、政治の基礎であるべきです。
# by arai_family | 2011-08-15 20:29 | 政治・経済について

多事争論

 私は筑紫哲也のファンではないけれども、丸山眞男のファンではある。(もっとも、丸山の弟子であった中野雄によれば、ふたりはお友達だったらしい) 福沢諭吉という人を知らなかったけれども、丸山の諭吉論を読んで、その少しがわかった積もりになって、実は丸山が諭吉に自らの思想の基礎をおいているのではないかと思った。 丸山の諭吉論をたかだか数千字で語ろうとするのはムリがあるし、分かったつもりでも誤謬もあるだろう。それが読み手に混乱を与えるだけだったらやめておいた方がいいだろうと思う。
 だからして、一文だけ揚げると、諭吉の言に、「単一の説を守れば、其説の性質は仮令(たと)ひ純情善良なるも、之に由て決して自由の気を生ず可らず。自由の気風は唯多事争論の間に在て存するものと知る可し」とある。ここに筑紫が好んで使った「多事争論」という表現が出てきて、その裏には、実は諭吉が多元主義(「いろいろな価値規準や考えが併存して当たり前だ」という考え方です。英語だとPluralism。もっと言うと、ドイツや北欧諸国の比例代表制(=多党制)という選挙制度は、この多元主義を前提にしているといっていい!)こそ自由の源と信じた思想的バックグラウンドがあるだろうと思った。

 その前に、丸山が自身の言葉でこんな風に述べている。多少長くなるけれども、自身のために特筆しておく。「こうした場合に対し、他の極として人間相互の関係が一刻も固定していずに不断に流動する社会を考えて見よう。そこでは人間をとりまく環境が不断に変化するから、精神は現在の状況に安住している事が出来ない。それはいつでも環境から投げ出される状態に置かれているから不断に目覚めていなければならぬ。昨日の状況に妥当した価値規準にもはや今日は安んじて依りかかって居られないから、いきおい、問題を抽象的固定的な規準で一刀両断せずに、不断に現在の状況を精査し、ヨリ善きもの、ヨリ真なるものを絶えず識別し判断しなければならぬ。そこに伝統や習慣に代って知性の占める役割が大きくなる。」

 大震災後の時勢は、まさに知性の必要性の再確認が求められる時代と言っていいのではないか。ひとつの考えをたてまつることは難しくない。求められるのは、時々刻々と変化していく時勢の先を読んで、ひとりひとりが知性を発揮することに他ならないのではないか。
 子供手当ての成り行きに収斂する政治家の議論の些末さに驚きを禁じ得ないけれども、原発の是非を始めとして、実はもっと重大なテーマがいくつもあるし、そうしたテーマのひとつひとつに丁寧に向き合う姿勢こそが求められる。ひとりひとりの知性が、日本の将来を形作っていくのです。勧善懲悪といった価値規準が通用しない。水戸黄門は、明日の日本を作らないのです。
# by arai_family | 2011-08-04 20:05 | 政治・経済について